エンジニア人生を振り返ってみる【Z社編|前編】

体験談

前回は高校を卒業した私が夜間専門学校に通いながらZ社でアルバイトしていた時代について記事にしました。
全くITのことを知らない状態で、ブラック企業でのアルバイト2年間、よく耐えたなと思います(笑)
ここから社員になることで更に苛酷になってきます。

現在は働き方改革により大分残業の規制などもありますが当時は残業がひどく土日出社は当たり前、会社に泊まりは当たり前の会社でした(笑)
そんな中、どんどん辞めていく同僚に鬱になる同期、Z戦士と揶揄される日々。あぁ、、、思い出しただけでも頭が痛くなる(笑)

今回から数回に分けて私の体験談としてエンジニア人生を振り返って行く2回目です。
おおよその年齢に対する役割、役職、給与水準がわかってくるかと思いますので、皆さんの参考になれば幸いです。

前回の記事はこちら

エンジニア人生を振り返ってみる【Z社アルバイト編】 – 悠々自適にゆくゆくライフ (yuqyuq.com)

Z社社員編 社員/年収240~330万円 [プログラマ/SE/現場リーダー](新卒20歳~23歳まで在籍)

昼はZ社でアルバイト、夜は専門学校で勉強していたこともあり、ロクに就職活動をしなかった筆者。
いや、しなかったわけではなく戦略的にやらなかった。
筆者としてはアルバイトとして2年間、Z社で働いていたためこのまま就職したほうが就職戦線の荒波に飲まれず楽が出来ると考えたわけである。

確かに就活は簡単だった。
ぶっちゃけ、何もしていない。
社長に社員になりたいとお願いしたら、「縁故採用」的な感じで社員採用が決まったのだった。
おかげで5人の新卒枠のうち一つを私が使うことになり、本来正攻法で入社するはずだった新卒1名が私のせいで落ちたことは言うまでもない。

そうして迎えた4月。
私を含む5人の新卒。一人は営業、一人は事務、私を含めた残り3名はエンジニア。
最初の数か月、私は天狗だったのを覚えている。
何せ、他の新卒よりスキル的な面で”出来た”のだ。

オラクル研修も早々にクリアした私はいち早く案件に投入。
当時の私はさぞかし鼻高々だったに違いない。
そんな私が主に経験した案件は大きく3つ。

①食品流通業界向け食品管理システム改修、保守(Access)
②建設業界向けDWH構築&BIレポート開発(Brio/Java/DB2)
③光学機器業界向けDWH構築&BIレポート開発(Hyperion Report/Oracle)

Z社がDWH得意なSES会社のため、体験した案件はどれも客先常駐。
典型的なSESである。ただし、Z社の場合はどれもプライム案件だった気がする。
当時、DWHやBIといった分野においてZ社はパイオニアだったことが大きいかもしれない。
逆に新キャラがZ社名義で常に登場して「誰だコイツ」って思っていたら協力会社―――すなわち3次受け会社の人間だったりした。
業界的に下請けへと流してマージンとるのが横行している業界だけあって、この辺りは凄かった。
下手したら社員は私だけ、とかザラである。

あと、スキルについての経歴詐称も普通にあったなぁ…当時はそこまで悪いことだと思っていたのは不思議。
高卒からアルバイトで入っていたことも影響して大分洗脳されていたのかもしれない。

まあ、愚痴はこのぐらいにして当時の私は他のアルバイトで2年経験しているとはいえ何ら新卒と変わらない立場でした。
給与も20万円程度。組織でも一番下。ぶっちゃけ味噌っかす扱いです(笑)
スキルとしては、この頃になるとアルバイト2年の経験があるためか早々に詳細設計以降は単独で出来るようになっていました。
得意な言語やBI、DBはVB6、ExcelVBA、AccessVBA、BussinessObjects、Oracle初級と正直高給取りにはほぼ遠く…。

しかし、②の建設業界の案件が私にとって大きな転機でした。
とある大手建設会社の情報システム部にSESでやってきた私ですが、ここでの生活はZ社とは一線を画すものでした。
仕事の分担が出来ている、毎日のチーム定例、きちんと休みがとれる、定時がある、と今考えるとごく当たり前のことでしたが、その当たり前を実践している優良企業でした。

ここで私はBrioと呼ばれるBIツールのレポート作成を行っていました。
今ではBrioは確かオラクル社に買収されてこの製品は無いのでかなりの無駄スキルですが、同時にSQLのスキルも上がったので良しです(笑)
この現場には2年ぐらい居たかと思います。
(同時に①の保守案件をやっていたわけですが・・・)

ここでは大きく成長することが出来て、他会社の協力会社の方と仲良くなることが出来たことがきっかけでJavaも習得することが出来ました。
この方のおかげでプログラミング言語のアルゴリズムがわかってきたというか、それまでの私は独学でやってきたこともありアルゴリズムが滅茶苦茶だったということに気が付くことが出来ました。
ここでの案件もBIツールなのにBrioが遅いとなり(これは今となっては作りが悪かった可能性あり)、Javaで同じレポートを作成する流れになりました。
その時に私のJavaスキルも業務を通して大きくスキルアップし、目まぐるしく変わる現場のメンバーの中で古株になったことから現場リーダーを任されることになりました。

といっても、やることは簡単な進捗確認だったわけですが、当時21歳の私にとっては自身の成長を大きく実感できる時でした。
私にJavaを教えてくださった他の協力会社の方には今でも感謝しており、尊敬できる人物です。
最近でこそ疎遠になってしまいましたが、当時はZ社を辞めた後も連絡をとっていたりしました。
こういった、自社以外の人間とも出会えることはSESという仕事の醍醐味なのかもしれません。
もっとも私の場合はせっかく覚えたシステム仕様や構築した人間関係が案件が変わるごとにリセットされるのが苦痛でしたが(笑)

やがて、他の協力会社の人とランチに行ったり、定時で帰宅したりとZ社内に居るより遥かに人間らしい生活を送ることが出来るようになりました。
大手建設会社の社員の方とも仲良くなり、定時後にカラオケ等、遊びに行くような関係になったり、他部署の方にここの社員でもないのに名前を覚えてもらえたりと割と楽しく仕事が出来た日々でした。

そんなこんなで2年が経過しようとしたとき異変が起きます。
というのもZ社と私の常駐先の関係が悪くなった、というか派遣されるZ社メンバーがことごとく使えず私以外のメンバーとの契約を切りたい、と先方が言い出したためでした。
今考えてみると現場リーダの私の力量が足りなかったこともあるのかもしれませんが、当時はZ社から送られてくる孫請け会社のメンバーのスキルが私より低く使い物にならなかったのです。
これがきっかけでZ社と先方の関係が悪くなり、契約を切ると同時に残されるはずだった私も営業の判断で自己撤退。

Z社で携わった案件で一番ホワイトな案件と別れを告げることになるのでした……。

後編に続く。

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